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2018年4月


新しい公益資金を呼び込む制度を

片山 正夫(公益財団法人「セゾン文化財団」常務理事)

新公益法人制度がスタートして今年で10年になる。
しかし、私の周囲(文化・芸術分野)では、この制度を利用して助成型の公益財団法人を設立したという話をほとんど聞かない。
公益法人全体を見ても、新制度発足後に新設された一般法人が4万を超えるなか、公益認定を受けたのはそのうちの2%にも満たないという。
個人的にはもう少し増えるものと思っていたが、期待外れという印象は否めない。
新しい公益法人がどれだけ増加したかは、制度改正の成否を評価する大事な指標だけに、この状況は残念というほかない。

なぜ数が増えないのか、助成財団について考えてみよう。
例えば、ここに事業で成功した人物がいる。
かれは公益的な目的のために私財を拠出し、基金を造成して、そこから助成金を出したいと考えている。
このとき、その人に成り代わって想像すると、お金の受け皿となるべき魅力的な法人格がうまく見当たらないことに気づく。

まずNPO法人は基本的に事業型の社団だから、これはNG。
公益を前提条件にしない一般財団法人では、ステータス面でやや難がある。
基金の運用益で助成金を出していくことを考えると、せめて利子・配当課税くらいは免税にしてもらいたいものだが、そう考えると選択肢は公益財団法人しかない。

ところがこれがなかなか厄介そうだ。
いろいろと細かいルールがあり、なかには何の意味があるのかと思うものも少なくない。

自分が汗水たらして働いてつくった財産なのだから、もっと自由にやりたい。
評議員会、理事会と、似たようなものをふたつもつくったうえ、2週間あいだをおいて開催するなど面倒だ。
理事会をつくるなら、人数の比率など気にせず、家族と親しい友人だけで構成したい。
立入検査で、アルコール入りの会議は控えろなどと余計な“指導”もされたくない。
時には(あくまで時には、である)支援した皆さんに囲まれてワインを振る舞い、素敵なおじいちゃんだと褒められもしたい…

私の知る限り、巨富を築いた人々は総じて縛られるのが大嫌いだ。
まして1銭もお金を出さない人に、ああだこうだと言われたくはない。
ただ、とはいえ ―ここからが重要だが― 社会に貢献したいというかれの意思そのものは、“ほぼほぼ”純粋なものなのである。
少なくとも制度を悪用し、あるいは課税をまぬかれることを目的とはしていない。

しかるに今の公益法人制度に照らせば、これは公益になじまない態度ということになる。
そういうふうにやりたいのなら、税制優遇のついた公益法人を目指すのはお門違いだとうわけだ。

おそらく公益のために私財を投じようとする人たちの大半は、私利私欲を全く捨て去った「聖人」でもなければ、制度の悪用を狙った「悪人」でもない。
たいていはどちらでもない普通の人間なのだ。
今の制度は、「悪人」を排除するために、「聖人」になることを強いているようでもある。

考えてもみよう、公共のために私財を供出してもよいと考える人たちは、いわば社会の宝物のような存在ではないか。
であるならまずもって、かれらにとって魅力的な制度をつくるべきだというのはおかしな考え方だろうか。
社会にとっても、制度が魅力的なら出てきたかもしれない公益資金を取り逃すのは、大いなる損失であるはずだ。

助成型財団についていえば、公益性を客観的に証明しつつ、こうしたマネーの受け皿となるような(つまり、細かな制約の少ない)制度を仮想することは、そう難しいことではない。
税制優遇つき法人の設立はとりあえず幅広に認め、もっぱらお金の出口を事後チェックする仕組みにすればよい。
出口とはつまり、毎年の助成総額と助成先だ。
額についてはペイアウトルールを導入すればよいだろうし、助成先についても、出捐者や理事の私益につながるようないわゆる“お手盛り”助成かどうかくらいは、その分野の専門家なら助成先リストをものの3分間も眺めれば判定できることだ。

助成型財団をやっているとしばしば経験することだが、机上で考えた制度(助成財団で言えば助成プログラム)が本当に機能するかどうかは、やってみないとわからない部分が多い。
そうであれば、違った発想に立った制度を社会実験的に試し、あるいは制度どうしを競わせて成果を比較するなどのことができればと思う。

現在公益信託制度の改正の検討が進められているが、少しずつ公益法人制度に近接しつつあるようだ。
これも、その意味からすれば少々もったいない気がする。
まったく違った発想に立った制度をデビューさせたほうが社会的な意味もあるし、公益に関心を持つ人間がどのような性向をもっているかを知る手がかりにもなるだろう。

誤解を恐れずに言えば、民間公益活動に求められる革新性や先駆性を具現化していくには、奔放で猥雑なエネルギーを取り込んでいくことも必要なのだ。
「水清ければ魚棲まず」にだけは、ならないことを祈りたい。